「虫の巻—虹になぜ虫ヘンがついているのか」
別物だった「虫」と「蟲」
静かな夜に虫たちがかなでる音が気持ちいい季節となった。農村はいうまでもなく、都市の郊外でも、ちょっとした植えこみのあるところでは、耳をすますとすずやかな音色が聞こえてきて、昼間の喧噪を忘れさせてくれる。風呂あがりにビールなど飲んでいる時に虫の音でも聞こえてくれば、あぁ風流だなと俳句の一つでもひねってみたくなるものだ。
しかし人間とはまことに勝手なもので、音色は楽しむくせに、いざその虫が実際に姿を現すと大騒ぎしてしまう。特に女性には虫を極端に嫌う人が多く、ついさっきまで音色を楽しんでいたことも忘れて、殺虫剤を持ち出す人までいるようだ。
ところで「虫」という漢字を昔は「蟲」と書いたことは、年配の方ならよくご存じであろう。要するに「學」と「学」、「國」と「国」などと同じく、新字体と旧字体のちがいなのだが、しかしもっと古くは、両者はまったくちがう漢字だった。《虫》が三つ集まっている「蟲」を省略して「虫」ができたのではなく、古くは「虫」と「蟲」の両方がそれぞれ別の意味で使われていたのである。
私たちがいま「むし」という意味で使う「虫」は、本来は毒蛇である「まむし」を意味する漢字だった。「虫」は頭の大きな蛇の形をかたどった象形文字で、音読みは「チュウ」ではなく「キ」。その《虫》がやがて「まむし」から意味が広がって、さまざまな小動物を表すようになった。
それに対して「蟲」(こちらの音読みは「チュウ」)は古くからもっぱら「むし」という意味で使われてきた。
両者はそのように別々の漢字だった。それがいつの間にか「蟲」の簡略字形として「虫」と書かれるようになり、やがて日本でも中国でも戦後の文字改革によって、「虫」が「むし」を意味する正規の漢字となった。
《虫》ヘンがついている漢字が昆虫だけに限らないのは、以上のような理由による。
昆虫に限らない「虫ヘン」
「虻」(あぶ)や「蟋」(コオロギ)、「蝉」(せみ)はムシの類といえるが、「蝮」(まむし)や「蟒」(うわばみ)はヘビの種類だし、「蜥」や「蜴」(どちらも「とかげ」)の爬虫類や、「蠍」(さそり)はクモガタ類だ。
「虹」にも《虫》がついているが、それは古代人がニジを山から山にわたる大きな竜と考えたからにほかならない。
「虫」が表す範囲は実に広く、さらには「蛸」(タコ)や「蛤」(ハマグリ)、「蝦」(エビ)、「蜃」(オオハマグリ)のような水中の小動物まで「虫」の仲間なのだ。子供から「タコはムシじゃないのに、どうして『蛸』に《虫》ヘンがついているの?」と聞かれて困り、適当にごまかしたり、「無視」してきたお父さんやお母さんはいなかっただろうか。

〔筆者〕
阿辻哲次氏プロフィール
1951年大阪生まれ。京都大学文学部中国語学中国文学専攻卒業。
京都大学大学院博士後期課程修了。静岡大学助教授、京都産業大学助教授、京都大学助教授を経て、現在京都大学大学院人間・環境学研究科教授。
専門は漢字を中心とした中国文字文化史で著書も多数執筆。主著「漢字学―『説文解字』の世界」(東海大学出版会)、「図説漢字の歴史」(大修館書店)、
「漢字の字源」(講談社現代新書)、「中国漢字紀行」(大修館書店)、「漢字の社会史」(PHP研究所)、「タブーの漢字学」(講談社現代新書)、
「『名前』の漢字学」(青春出版社)、「部首のはなし」「部首のはなし2」(中公新書)、「文字の文化史」(ちくま学芸文庫)、「近くて遠い中国語」
(中公新書)、「漢字を楽しむ」(講談社現代新書)など。

