櫻—二階の女はどこへいった?

花便りが新聞に載りだすと、なんとなく世間が浮き足立ってくる。
「世の中に たえて桜の なかりせば」 という名歌を持ち出すまでもなく、やれどこの桜が何分咲きだの、満開だの、と賑やかなことである。
日本の春には桜は欠かせない。
入学式の時期にはどこの学校でも桜が満開だし、花見の名所では遅くまで宴会が行われる。しかし花のもとでの読書も、またそれなりにオツなものである。

それぞれの時間
時間だけはたっぷりあった学生時代には、河原の土手でねころび、満開の桜のもとで軽い文庫本などを読むという楽しみがあった。それからずいぶん時間がたち、小遣いにはそれほど不自由しなくなったかわりに仕事に追われ、そんな自由で贅沢な時間など夢のまた夢のこととなった。
私たちは文庫本で育った世代である。近頃は「洪水」という表現がぴったりなほどに大量の文庫本が刊行されるが、もともと文庫本は古今東西の名著を安く出版するためのものだった。新刊は高いが、文庫本なら学生の小遣いでも買える。そしてそこには必読の名著が揃っていたから、昔の若者はせっせと愛読したものだった。
昭和二十年代生まれの私たちが手にした文庫本には、戦前や戦後まもなくにでた紙型を使っているものがたくさんあって、そのような本では旧字体の漢字がまだ使われていた。だから我々の世代にはこれで旧字体を覚えたという人も多いはずで、私もノートの表紙に「國語」とか「數學」などと書いて粋がっていたものである。

漢字とイメージ
こうして旧字体(「舊字體」と書くべきか)に興味をもちだしたのだが、中にはずいぶんと覚えにくいものもある。ところがこれには便利な覚え方があるということを、母親から聞いた。
たとえば「壽」という字は、「サムライの笛は一インチ」と覚えよと母は教えてくれた。《士》の《フエ》は《一》《吋》(インチ)と書くと、結果として「壽」という字になるという次第である。
同じデンで、「櫻」は「二階の女が気にかかる」と覚えた。「櫻」は、二つの《貝》と《女》が《木》ヘンの横にあるからである。 この覚え方を知ってから「櫻」という漢字に、なんとなくなまめかしく華やかなイメージを感じるようになった。だが今使われている「桜」という字体では、なかなかそうはいかない。
「櫻」は意味を表す《木》と、発音を表す《嬰》を組み合わせた漢字である。その《嬰》、つまりツクリの部分を草書体でくずして書いた形を楷書にしたのが「桜」である。「桜」では女が二階にはいなくなった。《ツメ》でも磨いているのだろうか。
戦後に国字改革が行われ、それまで俗字とか略字と呼ばれていた字形が正規の字形となった。多くの漢字が簡単に書けるようになったのはいいことなのだろうが、しかし人々がそれまで漢字に対してもっていた、自由で豊かなイメージのふくらみが簡略化によってしぼんでしまったことはまことに残念である。 ぽつぽつと咲き出した春の花を眺めながら。そんなことを考えた。 水茎随想

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〔筆者〕
阿辻哲次氏プロフィール
1951年大阪生まれ。京都大学文学部中国語学中国文学専攻卒業。 京都大学大学院博士後期課程修了。静岡大学助教授、京都産業大学助教授、京都大学助教授を経て、現在京都大学大学院人間・環境学研究科教授。 専門は漢字を中心とした中国文字文化史で著書も多数執筆。主著「漢字学―『説文解字』の世界」(東海大学出版会)、「図説漢字の歴史」(大修館書店)、 「漢字の字源」(講談社現代新書)、「中国漢字紀行」(大修館書店)、「漢字の社会史」(PHP研究所)、「タブーの漢字学」(講談社現代新書)、 「『名前』の漢字学」(青春出版社)、「部首のはなし」「部首のはなし2」(中公新書)、「文字の文化史」(ちくま学芸文庫)、「近くて遠い中国語」 (中公新書)、「漢字を楽しむ」(講談社現代新書)など。